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■■■ The World(逆位置)「ヒバリ、さん」 大きな薄茶の瞳を瞬かせて、沢田綱吉は俯きがちにそう呟いた。 小柄な肩は力なく落ち、揺れる視線は雲雀の足下を泳いでいる。昔は雲雀の顔を見た途端反射的に息を呑んで硬直するか、もしくは目線があからさまに逸らされていた。ともすれば雲雀のことを目が合えば即座に襲いかかってくる猛獣のようにでも思っていたのかもしれない。何かといえばやかましく喚いていたので、草食動物達のように心底恐怖しているようではなかったけれど、そこに畏れがなかったとは思わない。 有象無象が雲雀に恐怖しようが、挙動が目障りでなければ特に気にしない。以前の沢田綱吉は時折妙なことをやらかす、時々強い子供だったから、風紀を乱さなければ別段気にも留めなかった。 だが、不本意ながらあの子供の巻き起こす、あるいは巻き込まれる騒動に関わることが増えて、最近は雲雀の顔をきちんと見上げるようになっていた。思い出したようにびくつくが、雲雀を見かけてもさほど表情を変えないようになった。自分から近付いて、挨拶をするようになった。話をすることもあった。 雲雀が存在を認識した頃の、精神的な距離を強調したかのような沢田綱吉に胸の奥がムカっとして、子供が馴れた様が存外悪くなかったのだと自覚した。 「何」 返答は自然、断ち切るような冷たさを帯びた。 切りつけられたように沢田綱吉の身体が竦み、ひっと息を呑む音が響く。それでも足は逃げを打たず、おどおどと見上げてくる、その視線の先を見やって気付く。 これは夢だ。 「ここが世界の果てです」 雲雀の考えを肯定するかのように、沢田綱吉が告げた。 雲雀は普段夢を見ない。眠りにつくときは一瞬で、覚醒と状況判断は同時だ。意識が途切れる瞬間と、意識が立ち上がる瞬間は、雲雀の中でほぼ連続している。その間に夢などというものが挟まる余地はない。 だけれど確かに今この時、雲雀は夢の中にいる自分を知った。 沢田綱吉が指し示した先、乾いた地面が一筋の直線を描くように断絶している。崖のように見えるが、その先は真っ黒な闇がごうごうと渦巻いていた。あるいは光さえも飲み込むような黒に塗り潰されている所為で、頭の中で勝手に、崖の先にあるもの────濁流、あるいは荒海に脳内で変換しているのか。 雲雀が踏みしめる地面には石一つ無く、生き物の痕跡も枯れ草の残骸も、何一つない。妙に粒の揃った土は、あるいは砂漠のようにも見えた。 ただしくそれは世界の果てだった。 詰まらない、景色だった。 沢田綱吉を見据える。びくり、と震える身体に苛立ちが増す。ここが、これが雲雀の夢ならば、今目の前に立っているのは沢田綱吉でなく、沢田綱吉の形を象った、雲雀の記憶から形成された何かでしかない。 「つまり君は」 「ヒバリさん?」 らしくなく、言葉を飲み込んだ雲雀に沢田綱吉が小首を傾げる。その仕草が先ほどまでの大げさな怯え方よりもとても おおう、おおん、と遠く鳴く黒々とした闇が煩わしい。吹く風の音も虫の声も何もない、目の前の子供と雲雀が喋らなければ痛いほど重く垂れ込める静寂、それが耳鳴りを生んでいるのかもしれない。 「君が本物なら、咬み殺しているよ」 雲雀の前で、よりにもよって沢田綱吉の姿で、未知なる可能性の終わりを口にするなんて、よくもやってくれたものだ。 だがこれは夢だ。沢田綱吉は偽物だ。本物ではなく、従ってただの戯れ言にすぎない。だから雲雀は苛立ちの衝動を散らした。 「……くだらない」 これ以上胸くそ悪いものを見せられる前に雲雀は目を覚ますことを選んだ。視界がぼやけ、白々とした光が世界を拡散させてゆく。沢田綱吉の影がぶれ、輪郭が滲み、沈んでいた意識がぐんと水面に浮き上がっていくのが分かる。 ふと。 沢田綱吉が背負っていた空の色が思い出せないことに気付く。 世界の果ての空もまた、限りがあるのだろうか。 ぴくり、と右手が震える。筋肉の動き一つまで知覚して、雲雀は目を開けた。見慣れた応接室、黒いソファの上。夢の世界と現実との連続と断絶が噛み合うまでの数瞬、ぎりぎりと意識を掻き鳴らす不快に眉を顰める。 部屋は夕暮れの最後の光にぼんやりと照らし出されていた。昼寝のつもりで寝過ぎてしまったらしい。一つ欠伸をして立ち上がった。 四角く窓に切り取られた空は、オレンジと赤の境界線を越え、紫と藍と紺、そして黒がゆるゆると浸食しつつある。 夢から覚める瞬間、考えていたことをもう一度思い出した。 空に果てがあったなら────雲雀の意思なく動いた腕は、何をしようとしていたのだろう。 答えを雲雀は未だ知らず、脳裏に木霊する果ての音も既に遠かった。 (18.07.04/18.10.09改訂) |